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第六章 差し出された手

Auteur: 相沢蒼依
last update Date de publication: 2026-09-06 10:29:03

 ホテルのエントランスから出てきた智也と琴葉の姿が、瞼の裏に焼き付いて離れなかった。

 夜の街灯が淡いオレンジ色の光を路面に落とし、黒いアスファルトが湿ったように艶めいている。回転ドアがゆっくりと開く音とともに、二人が姿を現した。

 ふらつく琴葉を支える智也の腕。恋人のように密着した距離。優しく傾ける顔。

 琴葉の長い髪が、夜風にわずかに揺れて智也のスーツの肩に触れる。

 智也の手が彼女の腰に回り、指先が布地の上をそっと押さえる仕草まで、ありありと蘇る。

 あの光景を思い出すたび、胸の奥がざわりと音を立てた。

(……もう、いい)

 あれが何を意味するのか、考えることにも疲れた。説明を求める言葉も、問い詰める勇気も、もうどこにも残っていない。

 研究所のエントランスを出ると、澪は深く息を吐いた。

夜気は冷たく、コンクリートの壁に染み込んだ消毒液の匂いと、遠くの高速道路を走る車のエンジン音が混じっている。

 ガラス張りのファサードが、街灯の光を鈍く反射し、建物全体が静かに息を潜めているように見えた。

 袖口から覗く腕時計の針が、深夜を指している。 

「少し、よろしいですか」

  背後から、落ち着いた声がした。振り返ると、先ほど研究所内で見かけた長身の男性が立っていた。

 上質なスーツと切れ長の目。静かな余裕をまとった佇まい。黒い生地が夜の闇に溶け込み、シャツの白だけがくっきりと浮かび上がる。

 先日、病院で立ちくらみを支えてくれた人と同一人物だった。

「……あのときのお礼を、まだきちんとできていませんでした」

 澪は軽く頭を下げる。髪が肩に触れ、夜風が頰を撫でていく。 

「こちらこそ。無理をされていないかと気になっていました」

 男性は穏やかに微笑んだ。口元の柔らかさと、目の奥の澄んだ光が対照的だ。周囲には秘書らしき人物が少し離れて控えている。

 黒いコートの裾が風に揺れ、足元の石畳に長い影を落としていた。

「実は本日、この研究所の視察で伺いました。東条と申します」

「東条……?」

「東条グループの東条悠臣です」

 その名前に、澪はわずかに目を見開いた。

 東条グループ――この研究所の大株主であり、業界でも指折りの存在だ。高層ビル群の向こうに、彼らが手がける巨大な本社ビルが夜空に浮かんでいるのを、澪は知っていた。

「宮坂澪と申します。先日はありがとうございました」

「宮坂さん。製薬会社で新薬開発をされている、とおっしゃっていましたね」

「はい。こちらの抗がん剤プロジェクトで、研究を担当しています」

 悠臣は静かに頷いた。彼の視線は澪の顔に向けられたまま、決して逸れない。

「ちょうど、その件でお話を伺いたいと思っていました。少しお時間をいただけますか」

「かしこまりました」

 二人は廊下の端へ移動した。長い廊下が、両側の白い壁に挟まれて奥へと続いている。

 足元の床は磨かれたタイルで、二人の靴音が小さく響いた。

「今回のプロジェクトについて、いくつか確認したいことがあります」

 悠臣は資料を片手に、簡潔に質問を重ねた。紙の束がかすかに擦れる音が、静まり返った廊下に溶けていく。

 培養条件の安定性と副作用データの解釈。次のフェーズに向けたリスク管理。

 それらを澪は一つひとつ、正確に答えていく。そこに感情を挟まず、事実と根拠だけを簡潔に並べる。

「……なるほど」

 質問が一段落したとき、悠臣は静かに資料を閉じた。表紙が閉まる小さな音が、妙に耳に残る。

「資料だけでは見えなかった部分が、よく分かりました」

「ありがとうございます」

「率直に言います」

 悠臣は澪をまっすぐ見た。廊下の照明が彼の横顔を優しく照らし、切れ長の目に静かな光が宿る。

「宮坂さんの知識と、判断の速さには驚きました。感情に流されず、必要な情報だけを切り取る。ああいう対応ができる研究者は、多くありません」

 澪は小さく微笑んだ。

 「それは過大評価です。ただ、私にはこの仕事しかないので」

「この仕事しかない……ですか」

「はい」

 一瞬、澪の声が揺れた。けれど、それ以上は語らなかった。喉の奥で何かが詰まりそうになるのを、必死に押し殺す。

 悠臣はあえて、それ以上訊ねなかった。彼の視線が、澪の表情の端を静かに捉えている。

「私生活で何があっても、ここに立てば、自分を保てます。今の私を支えているのは、この研究だけです」

「そうですか」

 それだけの返事が、妙に沁みた。冷たい廊下の空気が、二人の間に静かに流れていく。

「では、また」

 澪は軽く会釈し、先に歩き出す。白い床を踏む靴音が規則正しく響き、背後から視線を感じたが、振り返らなかった。

 廊下の向こうで、実験室の青白い光がまだ静かに輝いている。その光だけが、今の自分を照らしている気がした。

***

 深夜、マンションの玄関が開く音がした。電子ロックの解除音が、暗い廊下に小さく響く。

 智也は疲れた様子で靴を脱ぎ、リビングへ入る。

 ソファに座り、ネクタイを緩める。アルコールの匂いが薄く残っていた。シャツの襟元から、微かな汗と夜の外気が混じった匂いが立ち上る。

 窓の外では、遠くの電車が走る音が微かに聞こえるだけ。部屋の照明は落とされ、テーブルランプの黄色い光だけが、壁に長い影を落としている。 

「澪?」

 返事はない。寝室のドアは閉まっている。隙間から漏れる光もなく、ただ黒い木目が静かに佇んでいるだけだった。

 智也は冷蔵庫から水を取り出し、一気に飲み干した。冷たい液体が喉を通り、胃に落ちる感触がぼんやりとした頭をわずかに覚醒させる。

 その手で、無意識に左手の薬指を触る。金属の冷たい感触が、指の皮膚に馴染んでいる。ふと、テーブルの上に目をやった。

 何気なく置かれた小さな銀の輪を目にして、智也は瞬きをした。

 ランプの光が輪の表面を捉え、鈍い輝きを放っている。埃ひとつないテーブルの上で、それはあまりにも無造作に、しかし確かな存在感を放っていた。

「……なんだ、これ」

 指を伸ばし、指輪を摘まむ。金属の冷たさが、指先から腕へと伝わる。

 内側に小さく刻まれた日付が、薄明かりの中で鈍く光った。結婚した日の日付。澪が、毎日肌身離さずつけていたものだった。

 朝の光の中で彼女の指に光っていたあの銀の輪が、今、自分の掌の中にある。

 智也の表情が、ゆっくりと強張っていく。部屋の空気が、急に重く感じられた。

 時計の秒針が刻む音だけが、異常なほど大きく響いている。

「……外してるのか」

 静かな部屋に、その呟きだけが残った。

 窓の外では、夜風がカーテンをわずかに揺らし、街の灯りが遠くで瞬いている。智也の指の間で、銀の輪が冷たく光り続けていた。

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