Se connecterホテルのエントランスから出てきた智也と琴葉の姿が、瞼の裏に焼き付いて離れなかった。
夜の街灯が淡いオレンジ色の光を路面に落とし、黒いアスファルトが湿ったように艶めいている。回転ドアがゆっくりと開く音とともに、二人が姿を現した。
ふらつく琴葉を支える智也の腕。恋人のように密着した距離。優しく傾ける顔。
琴葉の長い髪が、夜風にわずかに揺れて智也のスーツの肩に触れる。
智也の手が彼女の腰に回り、指先が布地の上をそっと押さえる仕草まで、ありありと蘇る。
あの光景を思い出すたび、胸の奥がざわりと音を立てた。
(……もう、いい)
あれが何を意味するのか、考えることにも疲れた。説明を求める言葉も、問い詰める勇気も、もうどこにも残っていない。
研究所のエントランスを出ると、澪は深く息を吐いた。
夜気は冷たく、コンクリートの壁に染み込んだ消毒液の匂いと、遠くの高速道路を走る車のエンジン音が混じっている。
ガラス張りのファサードが、街灯の光を鈍く反射し、建物全体が静かに息を潜めているように見えた。
袖口から覗く腕時計の針が、深夜を指している。
「少し、よろしいですか」
背後から、落ち着いた声がした。振り返ると、先ほど研究所内で見かけた長身の男性が立っていた。
上質なスーツと切れ長の目。静かな余裕をまとった佇まい。黒い生地が夜の闇に溶け込み、シャツの白だけがくっきりと浮かび上がる。
先日、病院で立ちくらみを支えてくれた人と同一人物だった。
「……あのときのお礼を、まだきちんとできていませんでした」
澪は軽く頭を下げる。髪が肩に触れ、夜風が頰を撫でていく。
「こちらこそ。無理をされていないかと気になっていました」
男性は穏やかに微笑んだ。口元の柔らかさと、目の奥の澄んだ光が対照的だ。周囲には秘書らしき人物が少し離れて控えている。
黒いコートの裾が風に揺れ、足元の石畳に長い影を落としていた。
「実は本日、この研究所の視察で伺いました。東条と申します」
「東条……?」 「東条グループの東条悠臣です」その名前に、澪はわずかに目を見開いた。
東条グループ――この研究所の大株主であり、業界でも指折りの存在だ。高層ビル群の向こうに、彼らが手がける巨大な本社ビルが夜空に浮かんでいるのを、澪は知っていた。
「宮坂澪と申します。先日はありがとうございました」
「宮坂さん。製薬会社で新薬開発をされている、とおっしゃっていましたね」 「はい。こちらの抗がん剤プロジェクトで、研究を担当しています」悠臣は静かに頷いた。彼の視線は澪の顔に向けられたまま、決して逸れない。
「ちょうど、その件でお話を伺いたいと思っていました。少しお時間をいただけますか」
「かしこまりました」二人は廊下の端へ移動した。長い廊下が、両側の白い壁に挟まれて奥へと続いている。
足元の床は磨かれたタイルで、二人の靴音が小さく響いた。
「今回のプロジェクトについて、いくつか確認したいことがあります」
悠臣は資料を片手に、簡潔に質問を重ねた。紙の束がかすかに擦れる音が、静まり返った廊下に溶けていく。
培養条件の安定性と副作用データの解釈。次のフェーズに向けたリスク管理。
それらを澪は一つひとつ、正確に答えていく。そこに感情を挟まず、事実と根拠だけを簡潔に並べる。
「……なるほど」
質問が一段落したとき、悠臣は静かに資料を閉じた。表紙が閉まる小さな音が、妙に耳に残る。
「資料だけでは見えなかった部分が、よく分かりました」
「ありがとうございます」 「率直に言います」悠臣は澪をまっすぐ見た。廊下の照明が彼の横顔を優しく照らし、切れ長の目に静かな光が宿る。
「宮坂さんの知識と、判断の速さには驚きました。感情に流されず、必要な情報だけを切り取る。ああいう対応ができる研究者は、多くありません」
澪は小さく微笑んだ。
「それは過大評価です。ただ、私にはこの仕事しかないので」
「この仕事しかない……ですか」 「はい」一瞬、澪の声が揺れた。けれど、それ以上は語らなかった。喉の奥で何かが詰まりそうになるのを、必死に押し殺す。
悠臣はあえて、それ以上訊ねなかった。彼の視線が、澪の表情の端を静かに捉えている。
「私生活で何があっても、ここに立てば、自分を保てます。今の私を支えているのは、この研究だけです」
「そうですか」それだけの返事が、妙に沁みた。冷たい廊下の空気が、二人の間に静かに流れていく。
「では、また」
澪は軽く会釈し、先に歩き出す。白い床を踏む靴音が規則正しく響き、背後から視線を感じたが、振り返らなかった。
廊下の向こうで、実験室の青白い光がまだ静かに輝いている。その光だけが、今の自分を照らしている気がした。
***深夜、マンションの玄関が開く音がした。電子ロックの解除音が、暗い廊下に小さく響く。
智也は疲れた様子で靴を脱ぎ、リビングへ入る。
ソファに座り、ネクタイを緩める。アルコールの匂いが薄く残っていた。シャツの襟元から、微かな汗と夜の外気が混じった匂いが立ち上る。
窓の外では、遠くの電車が走る音が微かに聞こえるだけ。部屋の照明は落とされ、テーブルランプの黄色い光だけが、壁に長い影を落としている。
「澪?」
返事はない。寝室のドアは閉まっている。隙間から漏れる光もなく、ただ黒い木目が静かに佇んでいるだけだった。
智也は冷蔵庫から水を取り出し、一気に飲み干した。冷たい液体が喉を通り、胃に落ちる感触がぼんやりとした頭をわずかに覚醒させる。
その手で、無意識に左手の薬指を触る。金属の冷たい感触が、指の皮膚に馴染んでいる。ふと、テーブルの上に目をやった。
何気なく置かれた小さな銀の輪を目にして、智也は瞬きをした。
ランプの光が輪の表面を捉え、鈍い輝きを放っている。埃ひとつないテーブルの上で、それはあまりにも無造作に、しかし確かな存在感を放っていた。
「……なんだ、これ」
指を伸ばし、指輪を摘まむ。金属の冷たさが、指先から腕へと伝わる。
内側に小さく刻まれた日付が、薄明かりの中で鈍く光った。結婚した日の日付。澪が、毎日肌身離さずつけていたものだった。
朝の光の中で彼女の指に光っていたあの銀の輪が、今、自分の掌の中にある。
智也の表情が、ゆっくりと強張っていく。部屋の空気が、急に重く感じられた。
時計の秒針が刻む音だけが、異常なほど大きく響いている。
「……外してるのか」
静かな部屋に、その呟きだけが残った。
窓の外では、夜風がカーテンをわずかに揺らし、街の灯りが遠くで瞬いている。智也の指の間で、銀の輪が冷たく光り続けていた。
新薬の入札まで、残り一ヶ月。研究所の空気は、日を追うごとに張り詰めていた。 白い壁に囲まれた実験フロアは、天井の蛍光灯が冷たい青白い光を満遍なく投げ、ガラスのパーティション越しに培養器の数字が規則正しく点滅している。 データ検証、最終調整、報告書の精査。どれもが気の抜けない作業ばかりだった。 キーボードを叩く音が各所から響き、機械の低い駆動音が背景に流れ続けている。澪はその中心で、淡々と業務をこなしている。 事務職を中断して白衣の袖を通し、モニターに映し出された数値を確認する。一つひとつのデータに目を通し、わずかな違和感も見逃さない。 感情を挟む余地など、今の自分にはなかった。指先がマウスを正確に動かし、過去のログと現在の数値を頭の中で照合していく。 同時に、もう一つの準備も着実に進めている。 弁護士とのやり取りと証拠の整理。それと、財産分与に向けた資料作成――帰宅後、智也がいない時間を見計らって、少しずつ形にしていく。 リビングのテーブルランプの黄色い光だけが円を描く静かな夜に、ファイルを開いて紙を一枚ずつ並べる。 誰にも気づかれないように、静かに確実に仕事と離婚準備。その両方を並行して進められる自分が、少しだけ遠く感じられた。 以前の自分なら、夫のことだけで頭がいっぱいになっていたはずなのに、今は違う。 自分の未来を、自分の手で決めようとしている。*** 東条悠臣との連絡は、以前より増えていた。 研究データの確認。次のフェーズに向けた意見交換。研究環境についての情報共有――どれも業務上の範囲を出ない。 メールの画面に表示される文字は簡潔で、余計な装飾がない。それでも悠臣は澪の判断を尊重し、余計な私情を挟まなかった。「必要な支援があれば、遠慮なく言ってください。ただし、あなたの判断を最優先します」 その言葉が、澪にとっては何よりありがたかった。 仕事上の最大の理解者。そう位置づけてしまう自分に、違和感はなかった。恋愛でも、依存でもない。 ただ、研究者として真っ直ぐに向き合ってくれる存在。それだけで十分だった。*** 一方、智也は初めて、はっきりとした焦りを自覚していた。 家に帰っても、澪の笑顔はない。相変わらず会話は最小限。結婚指輪は、もう二度とつけられていない。 どんなに優しく接しても、澪との距離は縮まらなかった
仕事から帰宅して、智也は自宅の書斎でパソコンの画面を睨んでいた。 部屋はほとんど灯りを落とし、デスクランプの光だけが円を描いて机と壁を照らしている。 検索窓に文字を打ち込む――宮坂澪 研究所。 キーボードを叩く音が静かな部屋に小さく響き、画面に次々と検索結果が並ぶ。表示された検索結果を、上から順に確認していく。 所属する研究機関。一般向けに公開されている研究分野の紹介。研究所が発表しているニュース――どれも、表面的な情報ばかりだった。 画面をスクロールする指先が微かに震え、ランプの光がキーボードのキーに影を落としている。「……名前が出てこないな」 智也は眉を寄せた。額に薄い皺が寄り、椅子の背もたれに体を預け直す。 さらに検索条件を変えてみる。けれど、結果は大きく変わらなかった。 妻の名前を検索しているはずなのに、出てくるのは澪が所属している研究所の情報ばかり。(――いったい、どういうことだ?) これまで智也は、澪の仕事に興味を持ったことなどなかった。 研究所で働いている、ただそれだけ――自分の会社のように、経営に関わる仕事をしているわけでもない。ましてや、研究者として何か大きな成果を上げているなどとは考えもしなかった。 だから白衣を着ることもない澪を見て、勝手に事務職のような仕事だと思い込んでいた。 実際は、どんな研究をしているのか。どんな立場にいるのか。どれほどの責任を背負っているのか、聞いたことすらない。 なのに今、東条悠臣が澪の働く研究所へ支援を申し出ている。その事実だけが、智也の中に重く残っていた。「俺は……」 智也は、画面を見つめたまま呟く。声が静かな部屋に溶け、画面の光が彼の瞳に映る。 「澪の何を知っていたんだ」 結婚して三年。同じ家で暮らし、同じ食卓を囲んできた。 それなのに妻が毎日どんな場所で、何をしているのか。自分は何も知らなかった。 いや、知らなかったのではない。知ろうとしなかったのだ。その事実に気づいた瞬間、胸の奥に妙な重さが広がった。 後悔――なのだろうか。けれど、まだそれを認めることはできない。自分が悪かったと素直に認めるほど、智也の中の何かが崩れ始めているわけではなかった。 ただ、これまで当たり前だと思っていた妻への認識が、少しずつ崩れている。そのことが、落ち着かなかった。 椅子が軋む小
研究所の会議室に、東条悠臣の姿があった。広い部屋は午前の陽光がブラインドの隙間から、細い光の筋を落としている。 神代を含む幹部陣が揃う中、悠臣は静かに資料を広げる。 黒いスーツの生地が陽光を柔らかく受け止め、切れ長の目が資料の文字を冷静に追っている。「東条グループとして、正式に支援を申し出ます」 告げられた言葉に場の空気が、わずかに引き締まった。椅子が軋む小さな音や、誰かが息をのむ気配が広がる。「今回の抗がん剤プロジェクトは、社会的意義が大変大きい。設備の増強と、研究環境の安定化に協力したいと考えています」 具体的な内容は、最新分析装置の導入支援と、共同研究枠の拡充。どちらも研究所全体の研究基盤を強化するものであり、宮坂澪個人に利益を与えるものではない。 提示された金額と規模も、研究所にとって大きな後押しになる提案だった。 神代は資料を確認すると、深く頷いた。眼鏡の位置を直し、指先でページをめくる仕草が慎重だった。「ありがたい申し出だ。前向きに検討させてもらう」「よろしくお願いします」 悠臣は静かに頭を下げた。その動作は控えめでありながら、確かな意志を感じさせるものだった。 会議は、その後いくつかの確認事項を残して終了した。*** 会議室を出たところで、澪は悠臣の姿を見つけた。白衣の袖を整え、澪は足を止める。「東条社長」 呼びかけると、悠臣が振り返る。切れ長の目が穏やかに澪を捉えた。「宮坂主任」 澪は背筋を伸ばしてから、深く頭を下げた。廊下の蛍光灯が彼女の横顔を青白く照らし、白衣の襟元がわずかに揺れる。「本当に、ありがとうございます」「礼を言われる筋合いのものではありません」「それでも……」 澪は一度言葉を切った。そして、慎重に言葉を選ぶ。指先が白衣の裾を軽く握り、視線を逸らさずに続ける。「特別扱いは困ります。私個人への便宜として受け取られるのは、本意ではありません」 やんわりとした拒否する。けれど、その意志は明確だった。 自分だけが特別に扱われることで、周囲から余計な誤解を受けることは避けたい。 何より研究者としての評価を、誰かの後ろ盾によって得たものだと思われたくなかった。 そんな澪の考えを、悠臣はすぐに理解したようだった。「もちろんです」 悠臣は穏やかに答えた。声は低く、しかしはっきりと廊下に響く。
研究所の総務部に一通の匿名メールが届いたのは、朝のことだった。 件名には「内部告発」とある。そこに記されていたのは、宮坂澪に関する複数の告発だった。 ――実験データの改ざんに関与しているのではないか。 ――特定の企業と不適切な関係を持っている。 ――主任という立場を利用し、私的な利益を得ている可能性がある。 いずれも、研究者としての信用を根底から揺るがしかねない内容だった。具体的な証拠は添付されていない。 それでも、新薬開発の入札を間近に控えたこの時期では、単なる悪戯として片づけるわけにはいかなかった。 総務から連絡を受けた神代は、重い表情で澪を呼び出した。「この内容を確認してほしい」 差し出されたタブレットの画面を見て、澪は静かに息を吐いた。驚きよりも先に、疲労感が押し寄せる。 またか――。 そんな言葉が、胸の奥に浮かんだ。「身に覚えはありません」「分かっている」 神代は即座に答えた。「だが、研究所として正式に調査する必要がある。入札を控えている以上、疑惑を残すわけにはいかない」「構いません」 澪は画面から目を離した。「必要なものは、すべて提出します」「助かる」 それからの数日間――澪は通常業務をこなしながら、過去の実験ログ、試薬の管理記録、データの更新履歴、外部とのやり取りに至るまで、求められた資料を一つずつ提出していった。 曖昧な記憶に頼ることはしない。 記録を確認して日時を照合し、数字を一つずつ追っていく。研究者として、当たり前のことを当たり前に積み重ねる。 その姿勢は、普段と何も変わらなかった。 そして、調査の中で重要な意味を持ったのが、先日の培養データ異常に関する記録だった。 急激に数値が変動した際、澪は原因を特定し、使用していた試薬のロットまで遡って確認している。 その判断から対応完了までの過程は、実験ログに時刻とともに残されていた。 データを書き換えたのなら、これほど一貫した記録が残るはずがない。むしろ、そのログは澪が異常をいち早く発見し、プロジェクトへの影響を最小限に抑えたことを示していた。 さらに、他の実験データや試薬管理記録との照合でも、不正を示す痕跡は見つからなかった。 調査開始から数日。神代は研究室に集まった研究員たちの前で、はっきりと告げた。「調査の結果、宮坂主任によるデータ
智也の態度が、明らかに変わっていた。 以前ならほとんど顔を合わせることのなかった朝食の席で、智也は澪の様子を伺うように視線を向け、口を開く。「今日は早く帰れる。何か食べたいものがあるか?」「疲れてないか? 無理するなよ」 顔を合わせるたびに、決して口にしなかったような言葉を澪にかける。 それだけじゃなく、食事の時間を合わせようとする。帰宅時間を早める。澪が疲れているように見えれば、積極的に声をかける。 どれも、少し前の智也なら考えもしなかったことだった。 妻を気に掛ける智也に対し、澪の反応は驚くほど薄かった。「大丈夫」「もう食べたから」「ありがとう」 短い言葉を返しては、それ以上の会話を続けようとはしない。 当然、笑顔もない。智也を気遣う様子もない。必要なことだけを告げると、自分の部屋へさっさと戻っていく。 ドアが閉まる音がリビングに乾いて響き、彼女の足音が廊下に消えていく。 その背中を、智也は何度も目で追った。 ソファに深く座り、閉じられたドアを見つめる。「……澪」 呼び止めようとして、やめる。 何を言えばいいのか、自分でも分からなかった。ただ、以前とは何かが違う。それだけは、はっきりと分かる。 部屋の空気が重く沈み、時計の秒針が異常なほど大きく聞こえる。ソファに座ったまま、智也は閉じられたドアを見つめた。(まだ怒っているのか……) 五千万円の送金について問いただされた夜から、澪との間にある距離が、明らかに感じられるようになった。 あのとき見た、澪の静かな目。責めるわけでもなく、泣くわけでもなく。ただ、自分を見つめていた。 あの視線が、なぜか頭から離れない。 テーブルの上には何も残っておらず、ランプの黄色い光だけが円を描いて何もない空間を照らし続けている。智也は小さく息を吐いた。 吐いた息が、ひんやりとした空気に溶けていく。(――きっと俺が変わればいい) そうすれば、いつか澪も元に戻る。以前のように笑って自分を頼って、妻として自分の隣にいてくれる。 そう信じていた。 その考えが、どれほど自分勝手なものなのか。智也は、まだ気づいていなかった。*** 一方――琴葉は、智也からの連絡が減っていることに気づいていた。 以前なら、夜遅くでも近況を聞いてくるメッセージが届いた。会う約束も、智也のほうから持ちか
弁護士事務所の個室は、静かで落ち着いた空気に包まれていた。 厚いカーペットが足音を吸い込み、壁際の間接照明が淡い琥珀色の光を落としている。 テーブルの上には、澪が少しずつ集めてきた資料が並んでいる。 通帳のコピーと振込記録。過去のメッセージの写し。そして――三年前の日付が印字された、一枚の銀行振込受付票。 白い紙が照明を受けて鈍く光り、角がわずかに折れた跡が、長い時間を経てきたことを物語っていた。 担当弁護士は眼鏡の奥でそれを見つめ、銀行振込受付表を取り上げる。指先で丁寧に縁を押さえ、文字をゆっくりと追いながら、静かに口を開く。「この五千万円の送金についてです」 送り主は御子柴智也。受取人は白石琴葉――金額は五千万円。 紙の上に印字された数字が、部屋の静けさの中で異様なほど大きく感じられた。「離婚調停や財産分与の場では、この送金理由も重要になります。贈与なのか、貸付なのか。それとも、別の関係性を示すものなのか」「……はい」 澪は静かに頷いた。椅子の背もたれに軽く体を預け、両手を膝の上で重ねる。「本人に確認します」 弁護士は資料を閉じると、澪をまっすぐ見た。眼鏡の奥の視線は冷静なのに、不思議と優しさを含んでいた。「感情的に詰め寄る必要はありません。ただ、事実を確認するだけで十分です」「分かりました」 澪は短く答えた。 もう、感情に任せて何かをぶつけるつもりはない。知りたいのは、事実だけだった。 部屋の空気がわずかに動き、ブラインドが夜の光を細く切り取っている。*** 弁護士事務所を出ると、夜の冷たい風が頬を撫でた。 高層ビルの谷間を吹き抜ける風は、昼間の熱をすっかり奪い、アスファルトの表面を冷たく湿らせている。 澪は不意に足を止め、小さく息を吐く。吐いた息が白い煙となって、夜気の中にすぐに溶けていった。 これまでなら、知ることが怖かった。事実を知れば傷つく。知れば、今まで信じてきたものが壊れてしまう。そう思っていた。 けれど――もう違う。どれだけ残酷な真実でも、知らなければ前には進めない。「大丈夫。私はもう逃げない……」 小さく呟き、澪は歩き出した。ヒールの音が冷たい石畳に規則正しく響き、街灯の光が彼女の横顔を優しく照らす。 知るべきことは、すべて知るその先にある未来を自分で選ぶために。*** その夜。智也